神棚をまつる


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宗教はこころである 議論するものではないもの それが普通じゃけんかんながら
 神饌の取り替えは真心でやってるほうが神気の作用が大きい。めんどくせーって思ってやってるとあまり作用は来ない。
 また、神饌はいつの間にやらのエサになってるわけだけど、僕はたまに凸凹した岩の狭間とかにちまちまと隠している。ダンジョンの宝物のようにしておいたほうがわくわくするから。雀に対していると、神の気分だ。(でも最近気のせいか雀が太ってきたんで本当に見つけられない場所に撒くかな。飛びたつ羽の音とかぶっとい。泣き声もぎゃーぎゃーうるさい)。いいものはたいてい隠されている。逆に毒薬や罠だったらわざと見えるところにセットする。ある日突然に系は注意。
気功の気は人間から発せられる人間的な気だけど 人間を人間たらしめてきた気は、人間より人間らしい 天使とか神とかいう霊気になる
伊勢神宮によりますと、三重県伊勢市にある内宮と外宮の2つの宮にことし参拝した人の数が、19日、860万3748人となりました。これは、明治29年に統計を取り始めて以降、最も多かった昭和48年の859万126人を (以下略
不景気は今に始まったことでもないし、式年遷宮の年でもない。パワースポットブームでにわかに多くの人が訪れたのだろう。でも僕は「地獄を見てただ一人で激流に溺れながら辿り着いたのに、自分で哲学をして自分でブレずに歩んできたからなのに」と思って、たかが流行語に乗って来るような人に、本当に信仰があり、本当に霊気としてのパワーを受け取られているものか、ふんっと思ったけど、その力は元々神様のものなのだし、神様から生まれし者はみなそこに回帰するものであるし、世界がこころの写し絵であるのと同じように、肉体・霊性に得られるものも現象と鏡像関係にあるから、神社の清浄な霊気を感じ取れる人はやはり肉体も清浄であるし、肉体が清浄であるということは霊性も清浄であるのだろうし、霊性の力を得られる人は信仰もある人なのだから、そんなこと思う必要がない。因果応報のとおりなのである。だからやっぱり参詣しても徒労に終わる人も多いだろうけど、まだ今はわからずともたくさんの人たちが参詣し、個人主義の自我の加速に歯止めがかかり、虐待や唯物主義を是とする人口が減ってゆけば結局僕らがいつも被っては清めてる霊障(生命力を滅ぼすもの:穢れ)の度合いも減ってゆくのでいいと思う。生命を生命としてわかちあう者が増えれば。後も先も関係ない。現時点で感応するか否か、のみが神に近いか否かの指標。


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