信仰すること

 何かを信仰するのはとてもよいことだ。神や仏の存在に感応できれば自分は謙虚になれる。そのアウラが自分から出ているものでないから。宗教はいらない、倫理さえあればいいじゃないかという人、倫理を保つには倫理を信仰する必要があるよ。
 信仰とは宗とする教えへ信心を持つこと。信心があればその教えがすんなり入ってくる。気功の気は気のせい。そう。仏教でいう「気づき」も"気"のせいなんですよ。心が応答しないと智慧にとして身に付かない。密教では霊性に感応できないうちは信仰によって行を続ける。そのうちに魂は向上している。また信じると信仰するは違う。「信じる」より「信仰する」のほうが持続する。
 人間は、一度、そう定義してしまったインプリントイメージを、再度素直な形に戻すことは難しいものである。世には無神論が横行しているが、無神論を乗り越えてパワースポットを認めても崇敬会には入らない。自分は特別の存在であるという定義がそうしてしまう。霊性の尊さもわからないから自分が今まで馬鹿にしてきたように人に馬鹿にされてまで信じることはしない。だからさらにそこを乗り越えるきっかけのあった一部の人間が、さらに一部の人間のみが知りうる世界を信じて従うのだ。いくら他力でもその途中には自力が必要なのである。霊性感応までの道のりは長い。神社と仏閣の霊性の違いがわかるくらいになるには一年ぐらい各所参拝して祈ったり唱えたりハタヨーガ等で肉体を浄めて霊性を感じ取る修養を行う必要がある。それまではただ信じて行うしかない。
 現象はどうなっているかわからない。振動数や周波数以外にも重力のようなエネルギーもある。三次元に囚われて三次元で時空間のすべてを解釈すればやがて脳は萎縮するだろう。神話などの虚実でないものはそれと反対に過程の物理に限定的に囚われていない捉え方をしている。いわば広がりがある。
ラフマニノフ
ピアノ協奏曲第二番 冒頭:
ピアノ協奏曲第三番 冒頭:
バルトーク
ピアノ組曲第14番:
コチシュの演奏でスピード感がリアル