一神教か多神教か

言語的に「神」を単数形と捉えるならば一神教になる。
集合無意識も、分断されていたら統合失調になるけど、基本的には一つである。
でも自分は一人だけど細胞は75兆個もある(八百万)。脳細胞も1000億から2000億の集合体であるので、そういう見方では一つではないということにはなる。
でも基本的には人それぞれの神に於いては、神は一つ。物理的な法則とかロゴスで考える場合はより一層一つになる。
 神や聖霊はたくさんいる。それぞれに個性がある。しかし、レセプタが一つで神々からの霊感を神からのものとして受け取ると断面的になる。一神教では神が近くにいてくださった、と思う。先祖かもしれないのに。
 絶對精神、アカシックレコード、集合的無意識、あるいは形而上の神ならいいけど、ある基準以上の霊的存在をカミとするなら一神教ではなくなる。一神教は過激になると、イチローを天才とすると前田が天才ではなくなり、前田を天才とするとイチローが天才ではなくなる。三位一体は形而上で理解したい。
 日本神道では 天之御中主神:絶対神>>高御産巣日神・神産巣日神():以上、造化三神(宇宙・万物・神・霊の創造神;中間子・陽子・中性子的存在)>>>>>別天神・神世七神:人類の創造・生命を司る神、他(宇魔志阿斯訶備比古遅神、他)>>イザナギ・イザナミ>>>>『天照大御神(高御産巣日神の命令で天界(高天ヶ原)の統治)>>スサノオ・ツキヨミ:以上、三貴神>>天皇関連の神(大国主は天皇との契約から此処)>>産神>誕生神(氏神)・他>広意義での八百万の神>人間神(乃木や豊臣など)>自然神(川や木や岩に宿る神)>霊獣>人工的な霊>他 となる
 天之御中主神はうつし身をもたない。無伺定のカミになる。キリスト教では宇宙根源神;絶対神以下を精霊とするんだろう。また神道ではひとつの御霊も八百万とする。素粒子的な考え。



 あとから法を組み立てていくより、はじめに賢者により法が決められていたほうがその世界は秩序が保たれている(スパルタの社会)。たとえめちゃくちゃな法律があってもうまく接木されている。多くの建築士により組まれた建物は何がやりたいのかがちぐはぐだ。さまざまなところから引用してきた哲学よりひとりの哲学のほうが完成度が高い。ひとつの神を信仰する団体のほうが整然としている。
 一神教には妄信的なところが多く結構嫌がられる場面もあるけど、キリストやマホメットが善性でなかったら彼らは迎合しないし信仰の為に命を捧げるって行為もしない。大陸的なのだな。それらの信仰を唯識的考えると、自分自身の善性をキリストやマホメットに投影しているので、それらを信仰するのは自分自身の善性を信仰するということ。それらを否定されるというのは自分たちの善性を否定されるということにつながる。自然発生した宗教とは違って、創始者になる人がいると、投影の仕方が人格的になる。自然発生した宗教になるとどうでもいいぐらいに曖昧になる傾向。草木は動物ではないしブラフマーは人格神ではないしね。また悪を仰ぐ宗教は廃れる。悪性は過激さと同様、生理的に弱いから。



 人間の知能も、あるマクロな単語(上位概念)を瞬時にイメージつけることができる。同じく仏教の霊性、神道の霊性、キリスト教の霊性、イスラム教の霊性を、固有名詞ではなく名詞のように(たとえばどこどこの仏閣の霊性、どこどこの神社の霊性、と細分化し、平均化しなくとも)肉体は捉えることができる。仏教はいくら、神道はいくらと数値化することもできる。どこどこの仏閣の霊性のどこどこの仏像、どこどこの神社のどこどこの宮社、さらにその中の個性の中のどんな部分が云々と細分化することもできるが、科学が進むほどミクロな細部に向かうのと同様に、そちらの作業のほうは、全体像に感応したあとになる。
武満徹
ノーヴェンバー・ステップス
鶴田錦史の琵琶の不思議な感触と 横山勝也の尺八の微妙な音程がいい 武満徹は音で音楽を構成するのではなく そこにあるものを音楽に投影した